私はお茶席に活けてあるお花が大好きです。
「花は野にあるように」という利休の教えから自然の風景をそのまま切り取ってきたような味わい深い趣向。田舎育ちで毎日あぜ道の野花と共に時間を過ごした私にとってはその佇まいが青春の日々を思い出させるトリガーになってなんだか懐かしいような、心地よく胸を締め付けられるような気持になります。
先生に伝えよう、この私の茶花への思いを・・・
あれ、なんて言えばいいの?読めない!
「ちゃばな」なのか「ちゃか」なのかわからなくなってしまいました。
お茶のお稽古・よみがなわからない問題勃発!
茶花は「ちゃばな」と読むのでしょうか、「ちゃか」と読むのでしょうか
答えは「ちゃばな」でした。
- goo国語辞書: [https://dictionary.goo.ne.jp/word/茶花]
- スーパーリーダーズ: [https://www.super-readers.com/word/茶花]
- Weblio辞書: [https://www.weblio.jp/content/茶花] 参考文献
よく考えれば「ちゃか」は刑事ドラマとかに出てくる銃なんかのことか…あ~言わなくてよかった!恥ずかしい。もう絶対間違えまい。
素朴で、自然のままという活け方が基本である茶花は基本的に山野の野草を使用します。
田舎住まいの私にとっては毎日どんな野草が生えているかをきょろきょろ探すのが日々の楽しみ。昨日までなかったお花や植物を見つけた時の喜び、それを活けて(ZOOMお稽古なのでお部屋は自分でしつらえています)先生と季節を共有できた時の喜びは格別です。
茶花を通しても、茶道が総合芸術であることを感じます。
「投げ入れ」という活け方が基本ですが、自然の風景をそのまま活けようとしても難しい。ほんとに「投げ入れ」してみても、何か手を加えたくなってしまいます。
小石やワイヤーで下を括ってより自然に見えるようにしたり。「自然に近づけるために工夫する」という一見矛盾したことをやっているなと思いつつ、今日も先生と茶花話をするのを楽しみにしています。
もっぱらの悩みは温暖化で本来の季節でない時期に早足で咲き始めたお花たちを活けるべきかどうか。「今」の時間を共有するなら“先生、こちらはもうこのお花が咲きましたよ”と伝えるために活けたい。けれどきっと茶花の掟では今このお花は活けないのだろうなとも不安になります。茶花がいつでも豊富にあるわけではない現代、「茶花は買わずに摘んでくる」に拘っている私が悪いのか。みなさんどうしているのかなぁ。
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